この公演の案内を差し上げたところ、怪談は苦手なので今回は遠慮いたします、という方が私の知人以外にも一定数いらっしゃるようです。
そういう申し出があった際はやんわりとお気持ち煩わせてすみません、と詫びを入れた後に、けれども、うらめしやも怪奇現象も呪いの人形も丑三詣りも廃屋の降霊現象も除霊も宜保愛子さんもなにも出てきませんからどうかご再考くださいませ、とお気持ちを変えてもらうことに努めてはいますが、いいお返事はまだもらえていません。
怪談をやろうと決めたのは、常日頃から日常を写しとったお芝居から少しだけ距離をおきたいと考えているからで、それにうってつけの題材が「怪談」なのではないかと思ったからですが、いや、怪談の力、恐るべしです。
今回本当にやりたかったのはドラマとしての語りの面白さであり、朗読の可能性を今一度広げてみたかったからにほかなりません。
朗読劇を初めて上演したのは一昨年2021年のことでした。
経緯や詳細は当ホームページのアーカイブより「夏を歩く」をご参照いただければと思いますが、その時に初めて朗読や話芸(講談)を書き、演出をし、その面白さに目覚めたわけですが、その時は原爆というテーマの説明や描写が大半を占めることになりました。
そこで一番身近な「ドラマ」に焦点を絞ろうと思い、そのための装置として「怪談」を選んだというわけです。
確かに「怪談」は文字からしてなにかしら恐ろしい気配がします、幽霊、怨恨などと同じように、見つめていると只者ではない気配が文字から漂ってきます。
そんなことを思いながら手元にある怪談のアンソロジー本を引っ張り出してみますと、そこには、小泉八雲、内田百閒、森鴎外、吉行淳之介に大岡昇平など名だたる方のお名前が連なっているところを見ると魅力のある素材であるのもまた事実です。
怖くなければ怪談じゃないとは思います、思いますが、今回は正直それほど怖くありません。
あ、ネタバレすみません。
それは「怖い」の代わりに「不思議」、「哀しい」、「切ない」をキーワードに自分なりに話を選んだからです。
そうです、最初からこの世にないものの「怖さ」をお芝居の中心に置きたくなかったからです。「怖さ」はお芝居の大事な要素ですが、それは現実世界のものでないとただの絵空事だろうと思うからです。
で、そう考えたときに公演のメインに据えたいなと思ったのが、平山蘆江さんです。そんなに名前の知られた方ではありませんが、泉鏡花さんのようなあちらの世界の案内人、お化けの取締役という立ち位置ではなく、どちらかといえば芸事や、花柳界の生活、風俗を描いた方として語られることの方が多いお方です。けれどもその作品には「不思議」、「哀しい」、「切ない」が目白押しだったのですから。
明日からいよいよ七月、連休の入口12日が初日なっておりますので、お忙しいとは思いますが、ご調整のほどどうぞよろしくお願いいたします。